ちりづかアーカイブ 制作:塵塚りんす linsoffortune@gmail.com [Twitter] [pixiv]

器怪にまつわる研究成果

いわゆる器物の妖怪、あるいは道具のお化け、今風に言えば付喪神に関する研究をしていました。 間違いもあるかもしれませんが、ひとつの研究成果として公開します。 調査研究のお役に立てていただければ幸いです。

※概ね2015年時点の調査に基づく情報となっています。

論文

東京大学大学院へ提出した修士学位論文に、レイアウト変更と誤字修正を施したものです。

『太平広記』の「精怪」譚から見た日本の器怪譚と『付喪神記』(pdfファイル)

【要約および補足】

○器怪研究における問題点

・器物の妖怪は古い中国の文献にも見られ、日本のものとの関係性が指摘されているが、実際に中国の器怪を深掘りするような研究はなされていない

・室町時代以前に記録された日本の器怪譚は極端に少ない
 (なのに、まるで当時の一般的な思想/日本人特有の発想であったかのように論じられがち)

・器怪譚に語られる器怪の姿は、一般的にイメージされる器怪の姿とは別物である
 (先入観を捨てて、文章をあるがまま読み解くことが必要である)

○中国の器怪譚
『太平広記』の「精怪」55話を分析

・最もスタンダードな器怪譚の構造は、以下のようなものである
 [怪異発生]不思議な人物が現れる → [正体判明]その正体が器物だと明らかになる

・怪異を起こす器物には、古いものや地中に埋没したものが多い(あくまで傾向であり、条件ではない)

・解決行動として、[怪異への攻撃]または[正体(器物)への処置]のいずれかがなされることが多い

・器物そのものがひとりでに動き出すような怪異は、「精怪」とは全く別の話型で語られる
 (器物にまつわる怪異だからといって、一緒くたに認識されるべきものではない)

○日本の器怪譚
『今昔物語集』『化物草紙』から、計7話を分析

・「器物を原因とする怪異」と「器物の姿で現れる怪異」とを分けて考える必要がある
 (昔から別物として扱われていたはずなのに、混同して論じるのは不適切である)

・この時代における「器物を原因とする怪異」は、話型や器物の状態において中国の「精怪」譚と似通っている
 (日本人特有の感性なるものではない)
 比較的、日本の器怪のほうが無害なものとして描写されている

・この時代における「器物の姿で現れる怪異」は、器物そのものの力によるものではなく、「鬼」や「霊」が正体であると解釈されていた

・器怪の概念は当時の日本人にとって身近ではなく、器物に対する恐怖も伴っていないことが読み取れる
 (現代の研究者による「中世の日本人が器物の怪異を恐れていた」というような言説は、根拠もないし実資料に即していない)

○器怪の図について

・説話における「器物を原因とする怪異」(器物の変化)は、その正体が器物であるとは判らないような姿で現れることが多い

・絵巻に出てくる「器物に似た形状で描かれた妖怪」は、「器物を原因とする怪異」を描いたものであるとは断言できず、説話の器怪とは全く異なる表象である
 (現代の研究者はこれらを同種の存在として扱いがちであるが、それは不正確である)

○『付喪神記』再読

上で分析した伝統的器怪説話と、有名な『付喪神記』とを比較する
(『付喪神記』は決して器怪のスタンダードではなく、特異な表象であることを示す)

・器物ならびに怪異を主人公とした語り(異類ものによくある擬人化)
 物語上の役割に対して連想される器物が当てはめられている(「数珠」や「手棒」が実際に化けかねない道具だと認識されていたわけではない)
 伝統的器怪説話においては、元の器物とその変化したものとの間に、類似などの論理的関連性が認められる例は多くなかった(変化(へんげ)は擬人化とは異なる)

・一時的な変化ではなく不可逆的な変身をしており、元の器物に戻らない
 (従来の話型からの脱却、妖物自らの発心成仏による解決)

・姿も行動も、凶暴性が高い(物語としての刺激が強化されている)

・『付喪神記』において「付喪神」という単語は、物語の前置きとしてしか使われていない
 結局のところ「非情成仏絵」という題名が最も的確に体を表していて、「付喪神記」「付喪神絵巻」といった題名は原作者によるものではないと考えられる
 (逆に、「付喪神記」という題名のせいで「付喪神」という単語が過剰に注目されてしまっている現状がある)

・冷泉家流伊勢物語注の中では『伊勢物語奧秘書』の記述が珍しく、器怪史上興味深い

・冷泉家流伊勢物語注から付喪神記への影響関係があったとすると、「百鬼夜行」の語を含む崇福寺本のほうが古態に近そうである

・「器物が変化した妖怪」を表現する図像として、詞書にはない「器物に似た形状の妖怪」が描かれ始めている。この傾向は後世の写本ほど大きくなる。

・近世以降の器怪表象は、「説話の系譜」と「絵巻の系譜」に二分される。『付喪神記』は日本器怪史における転換点として位置づけられる。

資料

2012年当時、すべての伝本を網羅する資料がなかったため、自力で可能な限り見つけ出してまとめました。

「付喪神記」伝本情報まとめ(pdfファイル)

コラム

器怪にまつわる小ネタ集です。思い出し次第お蔵出ししていきます。

【器怪の3分類】

「器物の妖怪」と一口に言う時、実はその中に様々な概念が入り混じっている。
概念の切り分けをしっかりと行わなければ、まともな考察を行うことは叶わない。
そこで私は以下のように器怪表象を分類し、理解している。

(A)器物を原因とする怪異
 なんらかの怪異が発生し、結果的にその原因(正体)が器物であると判明するもの。
 怪異現象自体は、怪しい人物や怪音、病気など多岐に渡る。
 説話や昔話でよく語られる。宝の化物もこれである。

(B)器物の姿で現れる怪異
 怪異そのものが器物の姿をしているもの。
 器物の尋常でない出現や動作が怪異として語られる。鬼や狸が正体とされることもある。
 説話や世間話でよく語られる。民俗学で報告されているサガリ系やコロバシ系の妖怪もこれにあたる。

(C)器物に似た姿で描かれる怪異
 絵画表現上、器物の要素を取り入れて描かれているもの。
 その正体が器物と関係しているかどうかは、詞書を読まなければ判断できない。
 いわゆる『百鬼夜行絵巻』が代表的である。
 おそらく『付喪神記』以降、(A)の絵画表現として用いられる(また、そう認識される)ことが多くなった。

【「付喪神」という言葉】

現代において「付喪神」という言葉はとても面倒な言葉である。
というのも、使用者によってその定義・イメージが180度異なる、あまりにも多義的な単語だからである。 それぞれがそれぞれのイメージを根拠として議論や糾弾を始めるものだから、もうお話にならない。
その語義を過去の文献に求めても、用例が極めて少ない上に使われ方も一定しておらず、混沌が深まるばかりである。

「付喪神」は遡れば、冷泉家流の伊勢物語注釈書にしか記載が見つからないような、ローカルでマイナーな表現である。
それが「非情成仏絵」において、古道具の化物という設定のキャラクターを登場させるための前置きとして使用された。 この段階では「それっぽい適当な表現」として読み飛ばされてもおかしくなかったのだろうが、この絵巻が「付喪神記」と呼ばれるようになったがために、後世の人々から過大評価されることとなる。 (かつてのどの資料も、「付喪神」という言葉を抽象的に説明するものであり、具体的怪異を指して「使って」はいない)
おそらく、小松和彦が器物にまつわる妖怪の総称として多用したことが、特に大きなきっかけであった。「付喪神」は各種メディアを通して、現代人にとってそれなりにメジャーな単語へと変化していった。
また、かつて長い間Wikipediaの「付喪神」の頁が出典不明のデタラメな記述に溢れていたことも、人々の「付喪神」観を拡張した一要因である。

もともと、大層な言葉ではないのだ。現代において多義性を持って一般化してしまった以上、特定の用法を「誤用」とする根拠はない。
ただ、その多義性ゆえに誤解を生む可能性が大きいため、私自身はあまり使いたくない。

【祀られる付喪神様】

名前に「神」が付いているからといって、それがいわゆる「神様」とは限らない。
例えばあの酒呑童子も、御伽草子の本文中で「鬼神(おにかみ)」と表現されていながら、神社にいるようないわゆる「神様」とは全く異なる種類の存在として描写されている。
「付喪神」も同様で元々「神様」的な要素は特に見られなかった。
だが、現代のフィクションでは付喪神が「神様」の一種として説明されることはもはや日常茶飯事となっている。
おなじみの「零落」の真逆を行く「昇格」現象として観察すると、これは実に面白い。(ものの捉え方が時代によって変わること自体は、別に悪いことでもなんでもない)
ちなみに江戸時代にはすでに『考古小録』で「付喪神を祀る」という表現がなされており、今に始まったことではないのだと分かる。

【変化が先か精霊が先か】

「モノにはみんな魂がある」などと、まことしやかに語られるようになったのはいつからだろうか。
『今昔物語集』の「銅の精(たま)」の話では、物の精が人に成るという。
『付喪神記』では、器物が化して精霊を得るという。
両者の主張は微妙に異なっている。卵が先か鶏が先かといった趣である。
まずは「物の精」「精霊」の当時の語義を、別の用例を通してしっかりと見極める必要があるだろう。

【かわいい怪異】

妖怪は怖いものというステレオタイプがあり、アンチテーゼとして江戸の化け物たちが取り上げられるのはもはやお決まりの流れとなっている。
もう少し遡って、室町後期の絵巻物『化物草紙』にはこのような表現がある。
(白い手が現れて栗を欲しがるのを見て)「いとふしきなれとも手のいたいけしたるほとにさまておそろしき心地もせて」
不思議だが可愛らしく、さほど恐ろしくもないと明言されているのである。(これが杓子の変化であると判明するのは、翌朝のことになる)
怪異が怖がられるというのも、あくまで傾向にすぎないのだ。さらに正体が分かってしまえば、それはもはや「枯れ尾花」である。

【無生物と無機物】

言葉の定義というのはいつも難題である。
大概の言葉は多義的で、文脈によってその指し示す範囲が異なるため、きちんと説明しないと話が噛み合わなくなってしまう。
「無機物」という言葉は、化学の「無機化合物」の意だけではなく、「生命活動をしていない物体(有機でないもの)」の意で用いられることもある。 例えば木製の杓子は、前者の定義に則れば有機物、後者の定義に則れば無機物として認識されるわけである。
では、「無機物」を後者の意で使う人は、たとえば食べ物も「無機物」だと思うのだろうか?
動物が「無機物」になるのは、死んだ瞬間か?道具に加工されてからか?それとも?
仮に鉄でできた生命体がいたとしたら、それを「無機物」の一種とは思わないのか?
言葉のイメージにぴったり当てはまる定義を行うことは、とても難しいことなのだ。
ちなみに「妖怪」とか「器物」とかも似たようなもので、人によってイメージがバラバラだからどんな定義も結局しっくり来ないし、議論が食い違ってしまうのである。